城巡り2025

●鳥取城

中国地方をドライブ。工事中でしたが鳥取城を見てきました。

段ボールで再現された「鳥取城二ノ丸三階櫓」がありました。

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鳥取城は、鳥取県鳥取市(因幡国邑美郡)にあった戦国時代から江戸時代の日本の城。

国の史跡に指定され、別名は久松城・久松山城という。

山名氏・武田氏・尼子氏・毛利氏の争奪戦の舞台となり、織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した。

開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された。

戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ。



●松本城

長野に行ってきました。早朝の松本城は朝日をバックに、静かに、かつ雄大に存在していました。



お堀の周りには柵がなく、水面に映る松本城がとてもきれいでした。


松本城をwiki!

松本城は、長野県松本市(旧・信濃国筑摩郡筑摩野松本)にある日本の城。松本城と呼ばれる以前は深志城といった。

天守は安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された現存天守の一つとして国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。

天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、犬山城、彦根城、松江城)。

典型的な平城で、本丸、二の丸、三の丸ともほぼ方形に整地されている。

南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。

これらは全て水堀により隔てられている。現存12天守の中では唯一の平城である。

層塔型5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。

大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。



●松代城

真田宝物館の入り口横に精巧なジオラマが設置されていました。


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松代城は、信濃国埴科郡海津(現・長野県長野市松代町松代)にあった。

元々は海津城とよく呼ばれていたが「貝津城」や「茅津城」とも言われ、茅の生い茂った地であったと伝える説もある。

城の形式は輪郭式平城。国の史跡に指定されている。

海津城の正確な築城時期は不明。戦国期、甲斐国の武田晴信が信濃侵攻を開始し、着実に領土を併合して北へ目指していく途中、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎と北信・川中島地域で軍事衝突した。

この武田晴信と長尾景虎の最初の対決、にらみ合いは、その後の北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展した。

この時、千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備され、東条城・尼飾城とともに上杉氏への最前線に位置する。



●美濃金山城

美濃金山城のふもとにある可児市戦国山城ミュージアムにジオラマがありました。


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金山城は、岐阜県可児市(美濃国可児郡兼山)にあった日本の山城。美濃金山城跡として2013年に国の史跡に指定された。

標高約277メートルの古城山の山頂に築かれ、天守台を山頂に配置し、本丸を中心に二の丸、三の丸、南腰曲輪、西腰曲輪が連郭式に配され、天守台北東側に東腰曲輪と称する一郭がある。

1537年、斎藤道三の養子である斎藤正義が、烏ヶ峰に築城を行った(烏ヶ峰城、烏峰城)。

16世紀前半当時、当地は木曽川上流の要地として発展しており、河港である金山湊が栄えた。

1548年、斎藤正義は近隣の久々利城主土岐悪五郎によって討たれた。

1565年、織田信長は烏ヶ峰城を奪取し、家臣の森可成を城主に据えた。森可成はこの城を金山城と改称し、城下町の建設に着手した。



●久々利城

同じく可児市戦国山城ミュージアムにジオラマがありました。

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久々利城は、岐阜県可児市にあった日本の山城。延元・正平年間(1336年-1370年)土岐康貞が築城した。

戦国時代には康貞の末裔久々利頼興が居城として東濃に勢威を誇ったが、1583年に金山城主の森長可に攻められ陥落、以後は森家家臣・戸田勘左衛門が城代となった。

1600年に森家が信濃に転封となると廃城となった。

虎と金魚と祭りと実り ~第3章~

兵庫県丹波篠山市の曳山祭りを中心に、祭りに関することを投稿します。 木工模型も少しずつ…。 第2章が容量一杯になったので第3章へ!

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